古事記のなかに神武東征という逸話があります。
日本の中心部で国を治めるため、日向(宮崎県)から大和(奈良県)を目指す神武天皇の旅のことです。
旅のあと神武天皇は初代天皇として即位し、日本の建国を宣言します。
諸外国の国民は自国の成り立ちを詳しく学ぶ機会があるそうですが、我々日本人はどうでしょうか?
ところで専門家によると、“東征”と称するものの神武天皇は大軍を率いて出発したのではないという。
途中の各地で稲作の指導をしながら畿内へ向かったそうだ。
いかがでしょうか?
神話とはいえ、少しは日本建国の経緯を知っておくのも悪くないし、実際、興味深い話も多いです。
本記事では、古事記が記す神武東征の逸話について、そこに秘められた本当の意味を紐解きながら解説します。
神武東征の本当の意味を紐解きながら解説
実は、神武天皇という名前は崩御のあとに贈られた「オクリナ(諡)」で漢風諡号(かんふうしごう)といわれる称号です。
しかし、本記事では便宜上、一貫して神武天皇という呼び方を用います。
神武東征:実は農業指導の旅
神武天皇が高千穂を発ち大和へ向かった旅を、一般に神武東征と称する。
しかし、大軍を率いて討伐に向かったのではない。
高千穂を出発して畿内に到着するまでの途中、広島で7年、岡山で8年滞在している。(解釈によってはその半分の期間)
こんなに長い期間を掛けた移動で大軍を率いていたとは考えられない。
では、各地で何をしていたか?
神武天皇の兄の名をヒントに紐解くと農業指導をしていた。そう考えると辻褄うという。
下記の動画にて詳しく解説されています。
神武東征:共に戦う仲間集め
畿内に到着するが立ちふさがる相手に敵わず、神武天皇一行は大阪から撤退して別ルートで大和へ向かう。
その途中、神武天皇は天界から霊力の備わった無敵の刀を授かる。
この刀があればそのまま敵に立ち向かえると思いきや、天界から派遣された八咫烏(やたがらす)の導くままに進む。
これは後に示す教訓の伏線となる。
八咫烏の案内のまま進むと、神武天皇一行は生尾人(なまおびと)と呼ばれる人々に遭遇する。
字のごとく尾の生えた人間なのではない。
これらの人々は、力あるものに食料を収奪されて痩せこけ、まるで尻に尾が生えたように見える人々であった。
神武天皇はこのような人々を救い、仲間に加えていったのち、はじめて宿敵との戦いに臨む。
そこにはある教訓が含まれているという。
その教訓とは、
強力な武器を持っていれば一人でも戦えるがそれは単なる「暴力」である。
しかし、「受益者」となる皆とともに戦うと「正義の戦い」になる。
本来はそのようにして戦うべきである、というもの。
ところで先ほどの伏線に戻ると、結局、八咫烏はどこへ案内しようとしていたのか?
実は、無敵の刀を得たからといってすぐさま敵のもとに向かうのではなく、
一緒に正義の戦いを闘うべき仲間のもとへと案内していた、
というのがその答えとなる。
神武東征:敵との戦い
仲間と力を合わせた戦いは、いかにして行われたか?
神武天皇は、戦いに前後して歌を詠んだとされる。
古事記は、戦いの描写に代えてそれらの歌を紹介している。
戦いを前にして、飢えに任せて何もできなかったこれまでとは違い、仲間たちの状況を少しは改善できたことを喜び合う歌。
いざ戦いが始まれば、「撃ちてし止まん」と徹底的に戦うんだと味方を鼓舞する歌。
戦いの合間に休みつつ、援助を求めて遠くにいる仲間に呼び掛ける歌。
などの歌である。
東征を終えての日本建国
戦いを終えた神武天皇は、大和(奈良県)橿原の地で建国宣言をする。
その宣言文の内容は、ほんとに大まかに示すと次のようなもの。
『国内全てが治まったわけではないが、これまで関わって来た土地には平和が訪れた。
未だ狩猟生活を送る人々もいるが、道理のあることを行っていけば、必ず皆が従ってくれる。
ここに多くの土地を束ねて都を開き、皆で支え合って生きていく国を創りたい。』
あまねく全てを統治したわけではないけれども今を一区切りとしつつも、次の段階に進もうという意思が感じられる。
まとめ
- 神武東征とは、国の中央で日本を治めんと、神武天皇が日向から大和へ向かう旅のこと。
- 宿敵を倒したのちに神武天皇は大和の地で建国を宣言する。
- 専門家によると、この神話には大切な教訓がいくつも込められている。
ここには日本人として大切にしたい教訓があった。
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