聖徳太子も関係。仏教伝来が招いた2大豪族の対立

日本の歴史
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仏教は日本人にとって身近な存在ですね。

仏教が日本に伝わったころ、外国からやって来たこの宗教を日本に取り入れるかの議論によって、一族同士の戦争にまで発展しました。

実は、聖徳太子もこの戦争に絡んでいます。

本記事では、どこから誰の手によって仏教が伝来し、そのとき何が起こったのか。

そして、どのようにして日本に仏教が普及していったのか解説します。

仏教伝来の初期

海を越えた仏教伝来

“仏教公伝”と“仏教伝来”

“仏教公伝”という言葉と、“仏教伝来”という言葉があり、両者には違いがあります。

6世紀、日本という国名はまだなく「倭国」と呼ばれていた時代に仏教は日本に伝わります。

当時、既に朝鮮半島と日本との間に人の往来がありました。

両者を往来する人によって、先に仏教が伝わっていた朝鮮半島から日本へ私的に仏像や経典などが持ち込まれることはあったでしょう。

しかし、それらが明確にいつ“伝来”したかは特定できない。

“仏教伝来”は何となく日本の民間に仏教が伝わってきている状態を指します。

一方、“仏教公伝”は、仏教に関する物品が外国から朝廷に献上され、日本に正式に仏教が伝わったことを指します。

具体的には、このとき朝鮮半島にある百済という国の聖明王の使者によって、倭国(日本)の欽明天皇に金銅の仏像一体や経典などが献上されました。

朝廷に仏像その他が献上され、日本へ正式に仏教が伝えられた出来事を“仏教公伝”と呼んでいる

仏教公伝の影響

仏教公伝は、当時の二大豪族である蘇我氏と物部氏の対立を招くことに。

百済の聖名王からの仏像を手にした欽明天皇は、蘇我稲目に仏像を預けました。

蘇我稲目は、自宅に寺を建てて預かった仏像を祀りました。

しかし、そののち疫病が流行。

仏像崇拝が疫病流行の原因だと、敵対する物部尾輿が糾弾したことで仏教普及の流れは衰退しました。

崇仏派の蘇我稲目が当初は優勢であったが、疫病流行の後は廃仏派の物部尾輿が盛り返す結果に

仏教伝来が招いた宗教戦争

仏教伝来が招いた宗教戦争

深まる蘇我馬子と物部守屋の対立

蘇我稲目と物部尾輿の対立は、両者の息子の代にも引き継がれます。

蘇我稲目の息子である蘇我馬子は、仏教の布教活動を引き継ぎ、敏達天皇の許可を得て寺を建てて仏像を祀ります。

しかし、またしても疫病が流行

物部尾輿の息子である物部守屋が敏達天皇に寺の焼き払いを進言し、敏達天皇はこれを許可。

ところが、寺を焼き払ったにも関わらず疫病は終息しません。

それどころか敏達天皇と物部守屋も疫病に罹ってしまいました。

病の治らない蘇我馬子が仏像を祀る許可を再び敏達天皇に求めると、敏達天皇は条件付きで許可。

敏達天皇はそのまま疫病で崩御してしまう。

仏教について敏達天皇の方針が定まらず、蘇我氏と物部氏の対立が深まった

丁未の乱で勝利する蘇我氏

敏達天皇のあとに即位した用明天皇は、蘇我氏の血縁でもあり仏教の布教に賛成でした。

しかし、在位わずか2年で崩御。

用明天皇の崩御のあと、天皇後継者を巡って蘇我馬子と物部守屋は自陣営が有利となるよう激しく対立します。

蘇我馬子は、物部守屋と同じく仏教反対派の中臣勝海を殺害。

さらに物部氏に近しい皇子をも殺害します。

蘇我馬子は、河内国の物部守屋邸へ進軍して勝利、物部守屋を討ち取る(丁未の乱)。

この戦いには、厩戸皇子(のちの聖徳太子)も蘇我氏側として参加しています。

一連の争いが決着した後、蘇我馬子が擁立した崇峻天皇がようやく即位。

仏教を巡る蘇我氏と物部氏の対立は、蘇我氏の完全勝利で終結

ちなみに、以下の動画を観れば、蘇我氏や物部氏について簡単により詳しく知ることができるのでお勧めです。

仏教伝来から普及の段階へ

経典

物部氏との対立に勝利し実権を握った蘇我馬子は、飛鳥寺を建立します。

さらに、蘇我馬子は推古天皇を擁立。

その推古天皇や蘇我馬子と共に戦った厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺や法隆寺を建立するなど、この頃から多くの寺院が建てられるようになります。

また、聖徳太子は「十七条の憲法」を発布し、その第二条に「篤く三宝を敬え」と記しました。

「三宝」とは「仏」「法」「僧」のことで、つまり仏様とその教えや僧侶を大切にしなさいということ。

さらに、聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三つの経典の注釈書である『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』を著すなど、仏教を広める政策を実施しました。

推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三者によって仏教普及の足掛かりが作られた

まとめ

  • 仏教伝来によって、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との間で激しい対立が生じた
  • その後、仏教を巡る蘇我氏と物部氏の対立は、蘇我氏の完全勝利で終結
  • 推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三者によって仏教普及の足掛かりが作られた

仏教は、その後、国家を安定化させるツールとして聖武天皇の政治に利用されるようになります。

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