古事記が伝えるヤマトタケルの功績や人物像、ホツマツタエが伝える別の姿も紹介

日本の神話-古事記
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ヤマトタケルは日本の神話に登場する英雄です。
名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。

でも、何をしたと伝わる人物か具体的に言えるでしょうか?
せっかくなので名前だけでなく具体的にどんな活躍をしたのか覚えておきませんか?

実は、ヤマトタケルは東国(今の関東方面)へ遠征に行っていて、各地にその謂れとされるものが残っています。
静岡県の焼津という地名もそのうちのひとつなんです。

この記事では、ヤマトタケルについて詳しく知りたいという方のために、まずは一般的に良く知られる古事記に記されたその人物像や功績を解説動画を用いて説明します。
そしてさらに、ホツマツタヱという古伝にも着目し、そこに記された、古事記とはまた少し違った人物像についても紹介します。

古事記におけるヤマトタケルの功績や人物像と、ホツマツタエが伝える別の姿について学べる動画を紹介

まずは、ヤマトタケルについて一般的に伝わっている功績についておさらいしましょう。

ヤマトタケルの活躍

ヤマトタケルは、古事記では倭建命、日本書紀では日本武尊と表記され、第12代景行天皇の皇子であり、第14代仲哀天皇の父である。

父が恐れるヤマトタケルの行動
オウス(後のヤマトタケル)には兄オオウスがいた。オオウスは、父の景行天皇のもとに嫁いできたエヒメ、オトヒメを勝手に自分の妻にしてしまい、その気まずさから父と共に食事を取ることを避けていた。
景行天皇はそれを懸念し、兄が心を改めるよう説得しろとオウスに命じたところ、オウスは兄を殺害してしまった。

クマソ退
景行天皇はオウスのこの行動に恐れを抱き、自分のもとから遠ざけようと考え、西方で勢力を伸ばしているクマソを征伐するように命じた。
クマソはクマソタケル兄弟が率いており、大和朝廷に反抗する動きを見せていた。

オウスがクマソに到着したとき、クマソたちは館を新築したことを祝う宴席をするところであった。
オウスは童女に扮してその宴会に潜入し、クマソタケル兄弟の傍に座ることに成功する。
そして、隙を見て二人を打ち取った。その際、「強い男」を意味するタケルの名前を譲り受け、これ以降、ヤマトタケルと名乗るようになった。

出雲征伐
クマソから大和へ戻る途中、ヤマトタケルは出雲に立ち寄ることにした。
出雲が大和より権威があるかのような振る舞いをしていたので、命令があったわけではないが父のために出雲を懲らしめる必要があるとヤマトタケルは考えたのであった。

出雲のイズモタケルと揖斐川で対峙したヤマトタケルは、友情の証と称して互いの剣を交換した。
しかし、密かにヤマトタケルは自分の剣を木製の偽物にすり替えており、交換するやイズモタケルに切りつけてだまし討ちをした

伊勢のヤマトヒメ
出雲を従えたヤマトタケルは大和に帰還したが、今度は東国征討を命じられる。
父から疎んじられていると感じたヤマトタケルは、東国へ向かう途上、叔母のヤマトヒメに会うため伊勢に立ち寄り、その胸の内を明かす。
ヤマトヒメは、後の三種の神器となる草薙の剣と御嚢(みふくろ)をヤマトタケルに渡して送り出した。

東征中に出会った二人の姫
尾張の熱田ではミヤズヒメに出会いひと目ぼれし、東国平定を終えて戻った暁には正妃とする約束を交わす。
また、妻にして欲しいと願うオトタチバナヒメという姫にも出会い、正妃となることを約束した女性の存在を知った上で彼女は東征に同行した。

東征中の危機
駿河の焼津では、敵の罠に嵌り野原の真ん中で火に囲まれる危機に陥るが、ヤマトヒメから授かった草薙の剣と御嚢(みふくろ)に入っていた火打石を使って危機を脱した。焼津という地名は、ヤマトタケルが火攻めにあったこの事件が由来と言われている。

相模の浦賀水道を船で航行中には急に海が荒れ始め、同行中のオトタチバナヒメが海の神に身を授けることでようやく海が静まり、事なきを得ることができた。

熱田への帰還
東征を終えて尾張の熱田に戻って来たヤマトタケルは約束通りミヤズヒメと夫婦になる。
しかし、神のご加護に頼らず自らの力を証明したいヤマトタケルは草薙の剣を置いて大和へ帰還することにした。
その後、草薙の剣は熱田神宮に祀られたまま現在に至るとされている。

ヤマトタケルの最期
大和への帰還途上、近江の伊吹山で大きな猪に出会う。ヤマトタケルはそれを見て、その猪は取るに足らない土地の神であろうと解釈した。
そのことが神の怒りに触れ、突然、雹(ひょう)が降ってきてヤマトタケルに当たり怪我をする。
なんとか伊勢の能褒野(のぼの)までたどり着くが、そこで息絶えてしまう。

死後、能褒野の地にはお墓が建てられたが、その墓からヤマトタケルの化身とされる大きな白鳥が生まれ飛び立ち、大和や河内へ向かった。
白鳥が舞い降りたとされる場所のひとつに大阪府羽曳野市があり、その地にヤマトタケルの墓と伝承される白鳥陵古墳がある。
羽曳野は、羽を曳くように白鳥が天に舞い戻ったことからその名が付いたとされている。

以上の内容を丁寧な語り口調で説明されているのが、下記の動画になります。約26分ですが、本編は約22分くらいまでです。せっかちな方は、再生速度を1.25~1.5倍にすることをお奨めします。

ホツマツタヱが伝えるヤマトタケル

次には、「ホツマツタヱ」という文献が伝えるヤマトタケル(ホツマツタヱでは”ヤマトタケ”)の人物像などを、専門家による3つの解説動画を交えながら紹介します。

ホツマツタヱとは『古事記』『日本書紀』の原書とも言われている書物であり、ここには古事記や日本書紀の記述と少し違うヤマトタケル像が記されているそうです。

例えば、古事記の記述にあるような父である景行天皇との間の確執のようなものは見受けられない。
古事記の記述のようにクマソ討伐を終えたのち今度は東国への遠征を命じられるのは同じであるが、東国へ向かうまで12年間は都に住んでおり、討伐を終えて直後に再び東征を命じられたわけではない。
また、東征を命じられたときも、今度は兄が行くべきだと主張し、一度は東征を辞退している。結局、兄が固辞したため、ヤマトタケルが東征に向かうことになるのだが、ここからは古事記の記述のように兄を殺害したわけではないということや兄を立てる様子などが読み取れる。

以上について専門家(いときょう先生)が詳しく解説される動画が次のものです。10分程度と比較的短いものです。

また、オトタチバナヒメが身を投げることで海を鎮めた逸話についてもホツマツタヱは別の観方を伝えているようです。

具体的には、古事記では海を鎮めてもらうために人身御供となったように記述されているが、ホツマツタヱによるとオトタチバナヒメはヤマトタケルのために海に入り自らが龍神となって海を鎮めたとされている。

以上の内容を中心に解説されている動画が次のものです。こちらも10分ほどの内容となっています。

さらに、伊吹山での事件の様子も少し趣の違った記述になっているようです。

熱田でミヤズヒメと一緒に居るところに、伊吹山に荒ぶる神がいる報告が入り、ヤマトタケルは伊吹山に行くことになる。
しかし、身を清めることなく山を登ったため、山の神の怒りに触れて怪我をしてしまうというもの。
死の間際にも、大事な先祖のことを忘れ、大切にすべきことを忘れたためにこのようになってしまったと、父である景行天皇へのメッセージを残しているそうです。

以上の内容に関する解説動画を下記に挙げて置きます。ぜひ、ご視聴下さい。9分ほどです。

まとめ

  • ヤマトタケルは、第12代景行天皇の皇子であり第14代仲哀天皇の父である神話上の英雄。
  • 古事記が伝えるところによると、粗暴な行動が原因で父に遠ざけられ、各地への討伐を命じられる。各地の平定に成功するが、大和へ帰還中に命を落としてしまう。
  • 一方、ホツマツタヱの記述には、父との不仲な様子などなく、力頼みだけではない人間味の溢れる人物像が描かれている。

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