坂上田村麻呂をご存知でしょうか?
初めて征夷大将軍になった人?
半分間違いで半分正解です。
征夷大将軍になりましたが、初の征夷大将軍ではないです。
でも、名前を知っているだけで歴史好きの証。
ですが、少しでも正しく知っておきたいですよね。
実は、坂上田村麻呂は京都の清水寺を築いた人物なんです。
さらに、その清水寺には坂上田村麻呂と戦った英雄たちの顕彰碑もあります。
これを知らない人は多いです。
そこで、坂上田村麻呂がどのような人物で何をした人か、そしてなぜ清水寺を築くことになったのか。
さらに、戦った英雄とは誰なのかを、動画を紹介しながら解説したいと思います。
坂上田村麻呂と蝦夷の阿弖流為(アテルイ)について解説します
まずは坂上田村麻呂について解説します。
坂上田村麻呂について
出生については諸説あるが、現在の奈良県に生まれたとの説が有力である。
坂上田村麻呂が誕生した頃の現在の東北地方は、朝廷と蝦夷との戦争が激化していた。
蝦夷とは、現在の宮城県や山形県以北に住み、朝廷の支配の外にあった人々のことである。
その蝦夷を討伐する目的で設けらえた征夷大将軍という役職に公卿・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が任じられ、坂上田村麻呂はその補佐役として初めて蝦夷征伐に参加した。
このとき坂上田村麻呂は大きな戦果を挙げたとされる。
大伴弟麻呂が高齢であったため、坂上田村麻呂はのちに桓武天皇によって征夷大将軍に任じられ、再び蝦夷征伐を目的に出征する。
この時の出征も成功し、都に戻ったのち近衛中将に任じられた。
みたび出征した際に蝦夷を降伏させ、リーダー格である阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)を都へ連行した。敵ながらもその能力を買っていた坂上田村麻呂は阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の助命を願ったが、願い叶わず朝廷は彼らの処刑を断行したのであった。
以上のことが次の動画で詳しく解説されてます。時間があれば観てみましょう。7分ほどの動画です。
坂上田村麻呂と清水寺、当時の蝦夷情勢
次に、蝦夷征討に向かった坂上田村麻呂と清水寺の関係、そして蝦夷と呼ばれた現在の東北地方の当時の情勢について解説します。
坂上田村麻呂と清水寺の関係
坂上田村麻呂は、鹿を追って入った音羽山で僧に出会った。
縁あって、その僧が保護する観音様に帰依し自宅を寺として寄進した。
その後、坂上田村麻呂は東北地方へ蝦夷(えみし)征討に向かい、華々しい成果を収めて凱旋する。
しかし、その成果は音羽山の観音様の加護があったからこそと考え、その地に今の清水寺の基となるお寺を築いた。
当時の蝦夷(東北地方)情勢
奈良時代から平安初期のころ、今の東北地方は大和朝廷から蝦夷(えみし)と呼ばれており朝廷の支配外にあった。
桓武天皇の父、光仁天皇の時代には伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が蝦夷にて反乱(宝亀の乱)を起こした。
桓武天皇の時代になると反乱を鎮圧するため紀古佐美(きのこさみ)が派遣されるが蝦夷の阿弖流為(アテルイ)によって惨敗させられた。
そのあと征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂がようやく制圧した。
以上のことが次の動画で詳しく解説されています。時間があれば観てみましょう。13分と少し長く、語りがゆっくりなので、1.25~1.5倍速くらいで観るとちょうど良いでしょう。
蝦夷の英雄 阿弖流為(アテルイ)
最後に、清水寺に顕彰碑が建てられ称えられている蝦夷の英雄 阿弖流為(アテルイ)についてです。
蝦夷を率いる阿弖流為(アテルイ)
当時、東北地方には出羽国や陸奥国が置かれただけであり朝廷の統治が及ばない土地が多かった。
阿弖流為(アテルイ)は彼の地の先住民である蝦夷(えみし)の連合軍を率いた人物であり、母礼(モレ)もリーダーの一人で阿弖流為(アテルイ)と共に闘った者。
大和朝廷と蝦夷
平時には朝廷と蝦夷の間で交易も行われていた。
しかし、平城京で飢饉や疫病が続きそれを収めるため東大寺に大仏が建立されることになると、朝廷は陸奥国の金山に目を付け、蝦夷への圧力を強めるようになった。
大仏の表面に飾る金を調達するためである。
そんななか、蝦夷にて伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱を起こし、多数の首長がこれに同調する事態となった。
この反乱は鎮圧されるが、これを機に本格的に朝廷が蝦夷制圧に乗り出す。
桓武天皇が即位すると蝦夷征討が本格化し、紀古佐美(きのこさみ)を将軍として大軍が派遣される。しかし、阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の蝦夷連合軍の巧みな戦術に惨敗を喫する。
朝廷は巻き返しを図るため、初の征夷大将軍に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を任じて遠征軍を派遣する。
副将に任じられた坂上田村麻呂が実質的に指揮を執り、勝利を収める。この功績によって、のちに坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられた。
その後の坂上田村麻呂が率いる追撃軍によって胆沢城が建設されるに至り、阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)レは降伏し平安京へ連行されることとなる。
そこで坂上田村麻呂は阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の助命を願ったが、朝廷は二人の処刑を断行したのであった。
蝦夷 阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)を称える碑
京都清水寺には、朝廷の大軍勢を相手に果敢に戦った阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の顕彰碑がある。
これは、関西在住の胆沢出身者などの有志によって1994年に建立された。
清水寺は坂上田村麻呂に縁ある場所である。
敵として戦いながらもその死を惜しんだ嘆いた坂上田村麻呂と、阿弖流為(アテルイ)・母礼(モレ)との敵味方を超えた友情を称える意味を込めて、その地に碑が建てられた。
清水寺には数えきれないほど足を運んだにも関わらず、そのような顕彰碑があることはおろか、背景にそのような物語があることを知らなかった。
今度、訪れるときは、是非、その碑を観てみたい。感慨深い面持ちにきっとなるだろう。
こちらについても解説動画があります。17分と長いですが、ハキハキとした声の女性によるものなので印象に残りやすく、またわかりやすいです。必見です。
関連小説
以上の動画を観て阿弖流為(アテルイ)やモレに関心を持った私は、ある小説を手にしました。
葛藤を抱いた少年阿弖流為(アテルイ)の成長と、仲間を守る戦いを通じで生まれた宿敵との友情を描いた小説です。
史実をベースにしつつ、記録のない隙間をフィクションで補ったものです。
少女母礼(モレ)との出会いで少年阿弖流為(アテルイ)が一方的に抱いた初恋の行方。
自らの複雑な出生と自分たちが住む村を破壊された恨みが原因で父である伊治呰麻呂(これはりのあざまろ、これはるのあざまろ)に対して複雑な葛藤を抱く阿弖流為(アテルイ)が、やがて成長しそれを克服する過程。
さらに、仲間や自分たちの土地を守るための戦いを通して生まれた、人間味溢れる坂上田村麻呂との敵味方を超えた友情。
そんな人間模様が描かれた一冊です。
AmazonからKindle版も出てますので、今すぐ無料で試し読みすることも可能です。
私も試し読みをしましたが、結局すぐにそのままダウンロードし読み始めました。
熱中して、3日間 15時間くらいで一気に読んでしまいました。
皆さんも是非、読んでみて下さい。
まとめ
- 坂上田村麻呂は平安時代の公卿・武官で、征夷大将軍として蝦夷征討で功績を挙げた。京都清水寺の礎を築いた人物でもある。
- 大和朝廷が現在の東北地方を制圧する過程で、現地の民を束ねて活躍する阿弖流為(アテルイ)、母礼(モレ)という人物がいた。
- 坂上田村麻呂と、阿弖流為(アテルイ)、モネとの敵味方を超えた敬意を表し、阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の顕彰碑が清水寺に建立されている。
コメント
「朝廷は陸奥国の金山に目を付け、蝦夷への圧力を強めるようになった」という歴史的事実はありません。当時朝廷が欲したのは銀ですし、奥州の産金量から輸入した金が大半です。
そもそも朝廷と蝦夷という単純な対立構造でしか歴史を見てないと理解できませんが、阿弖流為は正しくは大墓公阿弖利為ですからね。砦麻呂や阿奴志己といったエミシと同じく公姓を持つ朝廷側の人物です。
歴史的事実が反映されていない小説よりも、ミネルヴァ日本評伝選『阿弖流為』など学者が書かれた書籍を参考にした方がいいのではないでしょうか。
ミネルヴァ日本評伝選『阿弖流為』はボリュームのある書籍のようですが読んでみます。
教えていただきありがとうございます。