小野妹子、心臓強いっ、遣隋使の背景を掘り下げ

日本の歴史
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「遣隋使」「小野妹子」見覚えありますね。中国の隋に行ったんですよね。何か学びに行ったのだったかな。小野妹子が女性でないことはわかりますね。・・・それ以上のことは忘れましたね。

短い動画で解説してくれているものがあります。さらっと学びなおしましょう。

遣隋使と小野妹子について解説された動画を紹介

遣隋使と小野妹子

まずは紹介する動画の概要を示しましょう。

遣隋使が派遣された当時の国際情勢がどのようなものであったかというと、中国には最初の統一王朝である隋が存在し、この強力な軍事大国は今の北朝鮮あたりに存在した高句麗という国と交戦状態であった。

日本(倭国)が遣隋使を派遣した目的は隋と対等な外交関係を構築することであり、小野妹子が持参した国書の文面「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや(つつがなしや)。」にもそれが表れている。大国である隋に敢えてこのような姿勢で臨んだ背景には、隋は高句麗と交戦状態にあるが故、日本をも敵に回すような無下な態度は取らないだろうとの読みがあったようである。翌年、ふたたび小野妹子が派遣された際の国書にも両国が対等であることを主張するよう「東の天皇つつしみて西の皇帝にもうす」と書かれていた。ちなみに、対外的に「天皇」という称号が用いられたのは、この時が初めて。

遣隋使として派遣された小野妹子は滋賀県の豪族出身と考えられており、才能を認められて派遣の大使に取り立てられた。非常に冷静沈着な人物であったようであり、派遣に際して持参した国書の記述内容に隋の煬帝が怒りを露わにしても冷静にその様子を見ていたそうである。この時の遣隋使派遣にて隋と国交を樹立することができたのであるが、個人的にはこの成功の要因は小野妹子の人となりに依るところが大きいのではないかと感じる。この人物像の詳細については下記の動画必見です。11分ほどです。

遣隋使-解説動画

聖徳太子(厩戸皇子)

参考までに、遣隋使の派遣に大きく貢献した聖徳太子(厩戸皇子)について触れておきます。遣隋使派遣の背景がより詳しく理解できるでしょう。

出自としてはもちろん天皇家の人間であるが、同時に蘇我氏にもゆかりがある。

叔母である推古天皇の摂政となって政治を行い、内政としては当時の公務員制度となる冠位十二階や、役人の心構えを示した憲法十七条を制定する。外交面では、第一回、第二回の遣隋使を派遣した。一回目は国交を結ぶことはできなかったが、二回目は小野妹子を派遣し国交を結ぶことに成功した。

また、文化面では、仏教の布教に熱心で四天王寺や法隆寺を建立し、蘇我馬子と共に天皇紀、国紀という歴史書を編纂した。ただ残念ながらこれらの歴史書は現存していない。

まとめ

  • 強大な軍事国家である隋は高句麗と交戦状態であった。
  • 小野妹子は第二回目の遣隋使として派遣され隋との国交樹立に成功した。
  • 遣隋使の創設には聖徳太子(厩戸皇子)が大きく関わった。

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