心優しき為政者、聖武天皇の仏教重視の政治・政策

日本の歴史
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聖武天皇は奈良の大仏や正倉院と関連深く、歴代天皇のなかでもよく知られている天皇のひとりですね。

でも、聖武天皇が大仏を作った理由までは知らないのではないでしょうか?

さらに、聖武天皇は在位中に自分探しの旅に出ています。

そして、そのあと仏教を重視した政治を行います。

なぜそのような行動を取ったのでしょう。

良く知っているつもりでも、詳しいことはあまり知らない。

そんな聖武天皇のことを明らかにしたいと思います。

この記事では、聖武天皇がなぜ仏教重視の政策を始めたのか?

具体的には、どんな施策だったのか?

さらに、そのような仏教重視の政策を行ったことでどんな変化が起きたのかなどを解説します。

ぜひ最後までご一読下さい。

また、そもそも仏教がどのようにして日本に取り入れられたか興味ある方は、以下の仏教伝来に関する記事を参照下さい。

聖武天皇が仏教重視の政策を採用した背景

聖武天皇に縁ある正倉院

まず初めに、聖武天皇が仏教重視の政治を行うようになった背景について解説します。

聖武天皇の生い立ち

父は文武天皇。母は藤原不比等の娘である藤原宮子。つまり、天皇家と藤原家の間に産まれました。

七歳のときに父の文武天皇が崩御。

同時に母が思い病にかかってしまい、それ以降の30年間、母に会えませんでした。

不遇な少年時代です。

聖武天皇の生い立ちについて、家系図を基に詳しく知りたい方は次の動画がお薦めです。

聖武天皇の周囲で起きる政争

父の文武天皇が崩御した時の聖武天皇はまだ幼かったため、文武天皇の母が元明天皇として即位します。

しかし、聖武天皇が元服しても、天皇家と藤原家の対立のために即位は先延ばし。

24歳のときにようやく即位するも、天皇家と藤原家の争いは続きました。

そして、両者の対立が激化するなか、皇族の有力者であった長屋王が自殺に追い込まれるという事件が発生。

自分では何の制御もできない政争を繰り返し間近で見ることになります。

疫病と内乱

在位中に都で天然痘が流行し政府高官が次々に病死する時期がありました。

九州地方で内乱が発生するなどの暗い事件も発生。

都の暗い雰囲気を嫌ったのか、内乱の最中から聖武天皇は都を離れて今の三重県や岐阜県へと自分探しの旅に出かけました。

やがて旅から戻った聖武天皇は、仏教の力で日本に安寧をもたらそうと仏教重視の政策(鎮護国家)を志すように。

自身の不幸な生い立ちや暗い世相を振り払うべく、仏教に活路を見出した

仏教を重視した聖武天皇の政策

聖武天皇が建てた大仏殿

次に、聖武天皇が行った仏教重視の政策を解説します。

主な政策は次の2つ。

  • 国分寺・国分尼寺の建立
  • 大仏造立

国分寺・国分尼寺の建立

ひとつめの政策である国分寺・国分尼寺の建立について。

大仏造立に先だって、日本の各国に国分寺と国分尼寺というお寺を建てるように聖武天皇は詔を発しました。

国分寺は、実際には「国分僧寺」であり男性の僧侶が在籍する寺院

そして、奈良の東大寺を全国の国分僧寺の頂点と位置づけました。

いっぽう、国分尼寺は女性の尼僧が在籍する寺院

こちらは奈良にある現在の法華寺を全国にある国分尼寺の総本山と位置付けました。

国分寺・国分尼寺のどちらも、仏教の力で国を守るために作られた

大仏造立

次に大仏造立という政策について。

当初は遷都先である紫香楽宮(滋賀県)近辺で作ろうとし、その地で聖武天皇は大仏造立の詔を下した。

しかし、都が平城京に戻るとともに、現在の地で造立が開始。

大仏が造立された東大寺は、大和国(奈良県)の国分寺であると同時に全国の国分寺の総本山と位置付けられた。

大仏造立の詔は民衆に協力を呼び掛ける内容であって、時の権力者がこのように民衆に協力を呼び掛けるのは当時としては画期的なことであった。

造立の詔を下した後、聖武天皇は仏事に専念するため皇位を娘の孝謙天皇に譲位し、自身は隠居。

孝謙天皇の時代に大仏は完成し、その開眼供養には聖武上皇として出席している。

大仏が安置されている東大寺大仏殿は、当時では世界最大の木造建築物であった。

聖武天皇は、前例にとらわれない画期的な政策を打ち出していた。

仏教を重視した政治の影響

政策の悪影響

聖武天皇の行った仏教重視の政策には良い効果があった一方、良くない影響も発生しました。

どのような悪影響があったのか解説します。

大仏造立工事が地域周辺に与えた影響

大仏造立工事は大変に大掛かりなものであったので、工事によって地域の人口が急増し、地域の生活環境悪化を招きました。

なぜならば増えた人口に対して生活インフラの能力不足に陥ったからです。

大仏の造立に関わった人数は、完成までの11年間に合計で述べ260万人。

年間では延べ23万人ほど。

一方、当時の平城京の人口は10万人とみられ、工事によって人口が2倍程度も急増したことになります。

生活用水などインフラの充足が間に合わず、生活環境の悪化を招いていたとみられます。

また、工事従事者や周辺住民に水銀中毒を原因とする病気が発生していたと考えられます。

なぜならば大仏造立工事で水銀蒸気を発生する作業が行われていたから。

当時の大仏の表面には金メッキが施されていました。

この頃の金メッキの方法は水銀蒸気の発生を伴うものであり、水銀は中毒を引き起こす。

作業者だけではなく周辺住民も水銀蒸気を吸い込んでしまう環境に置かれ、病気を発症していたと思われます。

病気発生の原因は当時わからず、何かの祟りか呪いだと信じられていただろう。

以上、大仏造立工事に伴う影響については次の記事を参考に簡単にまとめました。

あとの時代への影響

聖武天皇が行った仏教重視の政策は、娘である孝謙天皇(後の称徳天皇)にも引き継がれました。

孝謙天皇(称徳天皇)は父への思い入れが深かったのでしょう。

自身が実権を握り称徳天皇として即位すると、政治において仏教重視の傾向が強まっていった。

その最たるものが僧侶である道鏡の重用

その結果、道鏡事件を引き起こしてしまいます。

称徳天皇が招いた道鏡事件について詳しく知りたい方は、次の記事をご一読下さい。

まとめ

  • 聖武天皇は、自身の不幸な生い立ちや暗い世相を振り払うべく、仏教に活路を見出した。
  • 仏教重視の政策を実行し、具体的には国分寺・国分尼寺の建立や大仏を造立した。
  • 娘である称徳天皇が仏教重視の政策を引き継いで強化した結果、道鏡事件と呼ばれる大事件を招いた。

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