道鏡事件と道鏡や称徳天皇、和気清麻呂の人物像を短い動画3選で解説

日本の歴史
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皇族以外の者が天皇になる。

そんな野望を抱いた僧侶がいた。そして実現しそうになったことを知っていますか?

驚きですね。でも、あまり知られていないことです。

ところで、その事件の関係者に和気清麻呂という重要人物がいます。

この人は平安京を建設したときの責任者です。

戦前までは誰もが知る有名人でした。

そして、この人は戦前までは誰もが知る有名人でした。

なぜ私たちは知らないのか?

そのあたりを含めていろいろ知りたくなってきたと思います。

この記事では、一僧侶が天皇になろうとして起こした道鏡事件とはどのような事件なのか解説します。

また、道鏡事件の関係者である道鏡や称徳天皇(孝謙天皇、孝謙上皇)、野望を阻止した和気清麻呂について、その人物像を明らかにします。

道鏡事件と関係者である道鏡や称徳天皇、和気清麻呂ついて動画を交えて解説

事件発生

道鏡と称徳天皇の出会いから、和気清麻呂による道鏡事件の収束までの経緯

道鏡は日本史三大悪人のひとりと言われ、河内国(現大阪府)若江郡に生まれ。

僧侶となって頭角を現し、病気になった皇族を看病する看病禅師となった。

称徳天皇は聖武天皇の娘であり、初め孝謙天皇として即位。

のちに天皇を退位し孝謙上皇となっていた時期に病気にかかる。

このとき病気を治すため祈りを捧げにやって来たのが道鏡。

道鏡の力で病気が治った孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになる。

この時期の政治は、淳仁天皇と藤原仲麻呂が中心になって執り行っていた。

しかし、淳仁天皇と藤原仲麻呂は孝謙上皇や道鏡と政治的に対立するようになる。

藤原仲麻呂は対立状況を軍事的に打開しようとした。

が、当初劣勢であった孝謙上皇らによって逆に鎮圧される。(藤原仲麻呂の乱、または恵美押勝の乱)

勝利した孝謙上皇は称徳天皇として即位し、道鏡を太政大臣にそして後に法王へと出世させた。

法王にまで登り詰めた道鏡は自らが天皇になる野心を現し道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件とも言う)を起こす。

この事件は、道鏡が自身の弟を使って、「道鏡を皇位につかせれば世の中は平和に治まる」との神託が宇佐八幡宮から授けられたと演出させたもの。

しかし、この企みは和気清麻呂に阻まれる

天皇になることを阻止された道鏡は、やがて称徳天皇が崩御すると下野国に左遷され、そこで生涯を閉じることとなる。

つまるところ道鏡事件とは、
仏教を重視する天皇の政策に乗じ、僧侶である立場を利用し野心を果たそうとした事件

以下は簡単に解説された動画です。併せて観て下さい。

仏教を重視するあまり道鏡の台頭を招いた称徳天皇

次は、称徳天皇が行った政治を中心に解説しましょう。

称徳天皇は父である聖武天皇の仏教政策を引き継いだ

具体的には、東大寺と対をなす西大寺の建立や各地の寺院への行幸を実行。

寺院だけでなく神社も保護しつつ、神社境内に寺を建てるなどを実施した。

これは神仏習合(神道と仏教の融合)に拍車を掛けた。

また、仏教関係者が政治参加できる仕組みも作り、政治と仏教の一体化を推進

仏教関係者用に政治的役職を創設し、これにより天皇と並ぶ法王の位にまで道鏡が出世することとなった。

称徳天皇は、父である聖武天皇が推進した鎮護国家(仏教で国を安定させる)の方針を究極にまで推進。結果、道鏡という野心家の台頭を許した。

称徳天皇は、尊敬する父の政策を推進することに自分の使命を見出したのでしょう。

しかし、ただ推進するだけではなく、自分の治める時代に即した着地点をしっかり考えておく必要があったと私は思います。

そうであったなら、仏教を重視しつつ道鏡事件のようなことが発生せず、バランスの取れた政治になったのではないでしょうか。

以下の動画は、上記で示しました称徳天皇の行ったことをわかりやすく解説してくれています。

ぜひ、併せてご覧ください。

道鏡事件を収束させた和気清麻呂

ここでは道鏡の野望を阻止した和気清麻呂に焦点を当てたいと思います。

野望を実現するため、弟を頼り「道鏡を天皇に据えれば国家が平和に治まる」という神託が宇佐八幡宮(宇佐神宮)に下ったと演出した道鏡。

一方、称徳天皇によって、神託の真偽を確認するため和気清麻呂が宇佐八幡宮へ派遣される。

向かう道中にも、道鏡が皇位に就くことの推進派および反対派の双方から多くの横槍が入る。

和気清麻呂が宇佐八幡宮にて改めて授かった神託は、「皇族以外の者が皇位に就くことはない。非道の者は追い払え。」

それによって道鏡の野望を阻止することに成功。

これにより道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)は収束。

しかし、称徳天皇の怒りを買った和気清麻呂自身は大隅に流されしまう。

やがて道鏡が失脚したのちには都に復帰。

桓武天皇の治世にて平安京建設の責任者に任じられ、みごとその責務を果たす。

ちなみに、太平洋戦争前の日本では肖像画が紙幣に使われるなど偉人としての評価が高かった。

もし和気清麻呂の活躍がなく道鏡が皇位に就いていたら、天皇の「万世一系」が損なわれるところでした。

皇統の断絶という危機を救った人物として評価されていたのでしょう。

信念を貫いたことにより一時失脚するも、のちに復帰し大活躍した和気清麻呂は、正に信念の人

和気清麻呂は「万世一系」の維持が国家に秩序・安寧をもたらすと信じいたのでしょう。

以上の内容を解説した動画がこちらになります。14分ほどです。

まとめ

  • 称徳天皇は聖武天皇の仏教政策をさらに推進。その結果、道鏡を野望へと走らせた。
  • 和気清麻呂が道鏡の野望を阻止。一時、遠国に流されるも都に戻り、平安京建設の重責を果たす。

大きな流れで捉えると、仏教を基に国造りを進めた結果、行き過ぎが生じたということ。その反省を踏まえ建て直しを図るため、桓武天皇が平安京遷都を行うという次の流れにつながる。

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